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| プ ロ フィ ー ル |
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広島市と長崎市に米軍の原子爆弾が投下され、一瞬のせん光と熱風が起きるきのこ雲の下に、数十万の人命と二つの都市が、潰滅していきました。
その日から55年の今日、都市は復元しましたが、原爆の洗礼を受けた人々は、長い忍従と苦難を耐えて、或る人は原爆のケロイドにうずく身を、病院のベットに横たえながら、希望なき日々に死を見つめ、或いは後遺症でいつ何処が発病するかと、不安と怖れの中の生活と闘いながら、厳しい生を過ごしている被爆者たちです。そしてノーモア・ヒロシマの願いをよそに、米国のビキニ環礁核実験で、再び焼津遠洋漁船「第5福竜丸」が死の灰を被り、久保山愛吉さんの死は、全国に恐怖の衝撃を伝え、ビキニ・デーとなりました。
34年3月、県内在住の被爆者17名が集まり、被爆者の会の結成が準備され、4月には中央組織である日本「被団協」及び「原水協」の協力も得て、県内5百余名の被爆者の内、名簿の明らかな被爆者の実態調査に入り、その成果から34年7月、静岡県教育会館に於いて、「静岡県原水爆被爆者の会」が結成されました。
その会則に盛られた運動目標は、
- 核兵器の廃絶と原爆体験の語り継ぎ。
- .被爆者援護法の制定。
- .網の目のような相談活動、集団検診の実施。
この運動は県内各界の支援を受けて、展開されて来ましたが、国内の安保条約改訂をめぐる左右の対立が激化する中で、被爆者の連帯を強め運動を発展させるためには、各地に支部が必要として、県内保健所単位に支部を結成することを進め、35年に浜松支部結成を初めとして、12支部が各地に結成されました。
又、県内被爆者のうち、物故者が続いていることから、慰霊碑を建立することとなり、県内各界から賛同浄財を得て57年9月、清水市内の鉄舟寺境内に慰霊碑の建立完成となり、104柱物故者の霊を祀り、毎年新たな物故者を合祀して慰霊祭を催し、2000年には合祀者は305柱となりました。
会の運動の三つの目標の達成は、中々容易ではなく会員は、蝕まれた体の不安を背負いながらも、全国の仲間と力を協せて、中央での請願陳情行動に出かけ、或いは県内焼津でのビキニ・デー、広島、長崎での原水爆禁止世界大会に参加し、被爆者としての悲願実現への運動を続けています。
会は58年5月結成された県難病団体連絡協議会にも参加し、原爆後遺症という医学では、完全回復の望みのない身を、難病の人達と共に手を携えて励まし扶け合うことをしています。
ストロンチュームとかセシウムという放射能がこの世界の日常食品にも増え続け、蓄積されてくると潰瘍やガン、白血病患者の原因となり、遺伝にも影響を及ぼすといわれます。
被爆者から生まれる子供は、一般のそれよりも死産、異状産、虚弱児、奇形児の率が高いといわれます。同じ病気に苦しむものとして、その苦しみを取り除く悲願を、連帯して運動に携わって行きたいと思うものです。
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